【芥屋】
ちいさい萌も花咲かそう。
竜宮の末路
学校の帰り道に見る家はとても立派な家でした。
重厚な門扉はいつもきっかり閉じて、白い塀が続く敷地内は覗けなかったけれど。
何かの事業を興して成功したのが祖父の代、もともとは武士のお家柄だったと母が、近隣の人たちと噂しているのを聞いたことがあります。
そういう人たちの世界は、私にはまるで別世界のようでした。
きっと毎日新しい綺麗な服を着て、美味しいものが食べられるのだろうなぁ、と。
二人の姉のお下がりであるくたびれて、裾口にお習字の墨が薄青く小さくついたブラウスを見下ろしながら、塀の脇を歩いて帰るのです。
中を覗いたことのない立派な家は、私にとって竜宮を夢見るような心地と、自分の貧しさを思いださせる家でした。
しかし、
戦争がはじまって空襲で東京も焼かれる日々が続いて。
疎開先に両親が迎えにきてくれるという幸運に、手を引かれながら戻った自宅。
小さな家は、ところどころ壊れていましたが、どうにか住める状態でした。雨漏りが盥で鳴る音さえ、家族全員で聞けば楽しかったのです。どうにか住める家でも家族が揃えばそこは立派な家でした。
私には十分な家だと、素直にそう思えたのです。
炊き出しの手伝いに姉と向かう道すがら、私が竜宮と呼んだ家が焼かれて見えました。
塀が崩れ、初めて見た敷地内には、おびただしい量の壷がずっしり地面も見えないほどに埋もれておりました。
壊れたもの、欠けたもの。風雨に晒されて色を落としたもの。よくよく見ると家屋内まで壷で溢れているようでした。
壷ひとつひとつにある穴が何百何千と並んでいることがこんなに空恐ろしいのだと誰が知っているでしょう。開け放たれた部屋で女性がひとり、繕い物をしています。
座っているせいだけでなく、質量の小さい女性は手を休め、困った様子でもなくただ茫洋と壷を見ておりました。
いえ、眺めたのは壷ではないのかもしれません。しかし、彼女が視線をどこに流しても屋敷にいる限り、壷は避けて通れぬのです。
こんなに多くの空洞を抱えてあの女性(ひと)は平気なのでしょうか。
玉手箱を空けた浦島太郎はこれより酷かったかしら、と思いながら。
あまりのことに言葉も出ず呆然と立ち尽くした私は、後に。
壷に憑かれ、魅入られたこの家の後日談を耳にすることがありました。それもどこまでが本当なのか知る由もありません。また私が知ったところで、どうすることもできません。
重厚な門扉はいつもきっかり閉じて、白い塀が続く敷地内は覗けなかったけれど。
何かの事業を興して成功したのが祖父の代、もともとは武士のお家柄だったと母が、近隣の人たちと噂しているのを聞いたことがあります。
そういう人たちの世界は、私にはまるで別世界のようでした。
きっと毎日新しい綺麗な服を着て、美味しいものが食べられるのだろうなぁ、と。
二人の姉のお下がりであるくたびれて、裾口にお習字の墨が薄青く小さくついたブラウスを見下ろしながら、塀の脇を歩いて帰るのです。
中を覗いたことのない立派な家は、私にとって竜宮を夢見るような心地と、自分の貧しさを思いださせる家でした。
しかし、
戦争がはじまって空襲で東京も焼かれる日々が続いて。
疎開先に両親が迎えにきてくれるという幸運に、手を引かれながら戻った自宅。
小さな家は、ところどころ壊れていましたが、どうにか住める状態でした。雨漏りが盥で鳴る音さえ、家族全員で聞けば楽しかったのです。どうにか住める家でも家族が揃えばそこは立派な家でした。
私には十分な家だと、素直にそう思えたのです。
炊き出しの手伝いに姉と向かう道すがら、私が竜宮と呼んだ家が焼かれて見えました。
塀が崩れ、初めて見た敷地内には、おびただしい量の壷がずっしり地面も見えないほどに埋もれておりました。
壊れたもの、欠けたもの。風雨に晒されて色を落としたもの。よくよく見ると家屋内まで壷で溢れているようでした。
壷ひとつひとつにある穴が何百何千と並んでいることがこんなに空恐ろしいのだと誰が知っているでしょう。開け放たれた部屋で女性がひとり、繕い物をしています。
座っているせいだけでなく、質量の小さい女性は手を休め、困った様子でもなくただ茫洋と壷を見ておりました。
いえ、眺めたのは壷ではないのかもしれません。しかし、彼女が視線をどこに流しても屋敷にいる限り、壷は避けて通れぬのです。
こんなに多くの空洞を抱えてあの女性(ひと)は平気なのでしょうか。
玉手箱を空けた浦島太郎はこれより酷かったかしら、と思いながら。
あまりのことに言葉も出ず呆然と立ち尽くした私は、後に。
壷に憑かれ、魅入られたこの家の後日談を耳にすることがありました。それもどこまでが本当なのか知る由もありません。また私が知ったところで、どうすることもできません。
寄り道
大地獄じゃ。小地獄じゃ。火炎地獄じゃ。畠のなかで小人がしくしく泣いてゐる――
頭の中で、声がした。
水底から聴く地上の声のように遠い。
距離を感じる声。否、拒絶をされている音の響きは唄を歌っている。
「お兄さん」
益田は思ったが、錯覚だったようだ。
眠いせいでまだ熱っぽい瞼を上げる。
自分の前髪がまず映る。弱そうに見える効果は覿面だと自負しているが流石に鬱陶しい。
髪をかき上げて身を起こす。
探偵とは違う地道な探偵助手としての調査や聞き込みを終え、堤防に寄った。
黄昏時の川岸に人影はなく、夕涼みの風に草がさあああ―と心地よさそうに身を揺らす。
今日は抜けるような晴天で、暑さに辟易していた益田は流れる水の匂いにも誘われて、堤防を降りた。湿地ではない、適当な窪みの草むらを探し益田は身体を横たえた。
(どうせ、扇風機は壊れたままだし)
伊佐間のオブジェのようになった元扇風機は役に立たないのに、未練がましく飾られる。
和寅の榎木津への意趣返しであるのだろうが、相手を選ばなきゃ―と益田は思っていた。
榎木津が、そんなことで殊勝になるはずはない。
和寅は益田より身に染みて解っているだろうに。
(…解ってるから、かぁ)
そんなことを考えているうちに寝入ってしまった。
見覚えのない娘が立っていた。
小作りな顔。色の抜け落ちたように白い膚。
全体的にパーツが小さい。
涼しげな目じりを長い睫が縁取る。
漆黒の肩まで掛かる髪を垂らし、少女は自らの腕にある彼岸花に視線を落としていた。
赤い―眼に染みる鮮やかな花。
糸の細さの花弁が花火のようだ。
数本、手折られた花を手にした少女は小声で何か歌っている。
大地獄じゃ。小地獄じゃ。火炎地獄じゃ。畠のなかで小人がしくしく泣いてゐる――
先ほど益田が夢の中で聞いたと思っていた呪文のような唄。
眼の前の少女が口ずさんでいたのだろうか。
少し空恐ろしい感覚に支配される。
黄昏の曖昧な時間と川岸という状況が作り出したまやかしだ、と思う。
―もう、
頭の中に響いてくる鈴の軽(かろ)い声音。
否、錯覚に過ぎない。少女は唇を動かしている。
「もう、日も暮れますのに風邪を引かれるわ」
白いブラウスが夕日に照らされ、赤く映える。黒いスカートは夕闇に紛れ――。
少女は透けるような白い頬を傾けた。
そこだけは何にも染まらないようだ。
「こんなところで寝てはいけませんのよ」
「ああ、そうだね。ありがとう」
少女の顔を意識的に視線から外して、益田は頷いた。
雰囲気に呑まれている、そう感じた。
少女は益田の様子に、クスクス笑って手元の彼岸花をクルクル回した。
「水際の誘いは断りませんと。引きずり込まれてしまいます。こと今日は」
お彼岸ですもの。
クルクルと、回す。
緑の茎と変わらぬ細さの指は、酷く冷たそうだ。
「……火炎地獄じゃ。この続き、お兄さん知ってるかしら。どうして、小人は泣くのでしょう?」
とんと覚えのない歌詞。
民謡か、童謡。小唄か、唱和か―聞き覚えのないことだけは確かだった。
首を横に振ると、そう―と少し悲しげに少女は顔を歪ませる。
「どうしてかな?」
「小人のね―、小人の足元から火がつくの。だから、泣くんですって。
でも変だわ。そう思わない?」
まるで、彼岸花の花弁が業火を熾す炎であるように少女は花を静かに一瞥して、益田を見つめた。
「泣くものかしら?そういう時って逃げるでしょう」
なのに、小人は泣き続ける。
しくしく、しくしく。
炎に包まれる畠のなかで。身を焦がしながら。
その声は小さいのに、酷く悲しげなものに違いない。
―きっと。
「逃げられないと解ってる?」
「そうじゃなくて?」
茎から撫でるように添った指が花弁に触れる。
きっと氷のように冷たいに違いない。
赤い花を――
くしゃり、と握りつぶした指。
流れる薄赤い花の液、染まる指先――花弁の残骸。
「だってどこに――」
逃げる場所があるの?
そう動いた唇から、声は紡がれなかった。
代わりに残り数本の彼岸花を益田に手渡す。
「私の代わりに川に流してくださらない。あまり――水際には寄りたくないの」
誘われれば、引き込まれる。
それは少女自身のことだったのかもしれない。
花を受け取る時に微かに触れた指先は想像とは違って体温のあるものだったけれど。
――だからこそ、か。
「ありがとう」
少女はそのまま踵を返す。
堤防を昇り、小さくなっていく華奢な影を見送って益田は彼岸花をクルクルと回した。
「なんか…」
関口さんの役どころだな、これ―と息を吐く。
薄れていた現実感は、少女が消えて急速に戻りつつあった。
手元の花に僅かに非現実を抱いている。
彼岸は季節の分かれ目。彼岸と此岸の境界が曖昧になるのもまたこの日――。
水際には――
「魍魎だったっけ?」
さわさわと髪をなぶる夕風が、益田の言葉を浚った。
中禅寺は魍魎が苦手らしい。その割には巧みな弁舌で落としたのだと。
鳥口から聞いた話を思い出した。
もう一度、花を見る。
凛とした立ち姿に、誰かの影が重なった。
境界を分かつ時季に咲く鮮やかな花。
人に何かしら強烈な印象を与える存在。
この夏も――ひとつの世界を解体し、再構築した陰陽師。
(――ああ、似てるかも)
そう思い自身で思った内容に益田は一人赤くなった。
花(例え彼岸花であっても)と重ねて見るのは、普通憎からず想う人だろう―慌てて首を横に振る。
「何だかな、ヤだなぁ」
カマオロカめッと高らかに愚弄する探偵が何故か脳裏に過ぎった。
益田は誰に聞かれるともなく呟いて、大きく伸びをする。
間延びした声に促され、ますます現実に戻る。
「よし、と。まあ」
濡れた草に足を捕られながら歩を進める。
川面が落ちる寸前の陽に反射してゆらゆらと煌く。
流れる水に寄る。身体を曲げて、花を水の中に横たえる。
ひっそりとした匂う水。
暗い水に花はそっと流れ――。
水の色と花の色は離れるに従って同化していく。
もうしばらく眺めてから探偵社に戻ろうと益田は思った。
頭の中で、声がした。
水底から聴く地上の声のように遠い。
距離を感じる声。否、拒絶をされている音の響きは唄を歌っている。
「お兄さん」
益田は思ったが、錯覚だったようだ。
眠いせいでまだ熱っぽい瞼を上げる。
自分の前髪がまず映る。弱そうに見える効果は覿面だと自負しているが流石に鬱陶しい。
髪をかき上げて身を起こす。
探偵とは違う地道な探偵助手としての調査や聞き込みを終え、堤防に寄った。
黄昏時の川岸に人影はなく、夕涼みの風に草がさあああ―と心地よさそうに身を揺らす。
今日は抜けるような晴天で、暑さに辟易していた益田は流れる水の匂いにも誘われて、堤防を降りた。湿地ではない、適当な窪みの草むらを探し益田は身体を横たえた。
(どうせ、扇風機は壊れたままだし)
伊佐間のオブジェのようになった元扇風機は役に立たないのに、未練がましく飾られる。
和寅の榎木津への意趣返しであるのだろうが、相手を選ばなきゃ―と益田は思っていた。
榎木津が、そんなことで殊勝になるはずはない。
和寅は益田より身に染みて解っているだろうに。
(…解ってるから、かぁ)
そんなことを考えているうちに寝入ってしまった。
見覚えのない娘が立っていた。
小作りな顔。色の抜け落ちたように白い膚。
全体的にパーツが小さい。
涼しげな目じりを長い睫が縁取る。
漆黒の肩まで掛かる髪を垂らし、少女は自らの腕にある彼岸花に視線を落としていた。
赤い―眼に染みる鮮やかな花。
糸の細さの花弁が花火のようだ。
数本、手折られた花を手にした少女は小声で何か歌っている。
大地獄じゃ。小地獄じゃ。火炎地獄じゃ。畠のなかで小人がしくしく泣いてゐる――
先ほど益田が夢の中で聞いたと思っていた呪文のような唄。
眼の前の少女が口ずさんでいたのだろうか。
少し空恐ろしい感覚に支配される。
黄昏の曖昧な時間と川岸という状況が作り出したまやかしだ、と思う。
―もう、
頭の中に響いてくる鈴の軽(かろ)い声音。
否、錯覚に過ぎない。少女は唇を動かしている。
「もう、日も暮れますのに風邪を引かれるわ」
白いブラウスが夕日に照らされ、赤く映える。黒いスカートは夕闇に紛れ――。
少女は透けるような白い頬を傾けた。
そこだけは何にも染まらないようだ。
「こんなところで寝てはいけませんのよ」
「ああ、そうだね。ありがとう」
少女の顔を意識的に視線から外して、益田は頷いた。
雰囲気に呑まれている、そう感じた。
少女は益田の様子に、クスクス笑って手元の彼岸花をクルクル回した。
「水際の誘いは断りませんと。引きずり込まれてしまいます。こと今日は」
お彼岸ですもの。
クルクルと、回す。
緑の茎と変わらぬ細さの指は、酷く冷たそうだ。
「……火炎地獄じゃ。この続き、お兄さん知ってるかしら。どうして、小人は泣くのでしょう?」
とんと覚えのない歌詞。
民謡か、童謡。小唄か、唱和か―聞き覚えのないことだけは確かだった。
首を横に振ると、そう―と少し悲しげに少女は顔を歪ませる。
「どうしてかな?」
「小人のね―、小人の足元から火がつくの。だから、泣くんですって。
でも変だわ。そう思わない?」
まるで、彼岸花の花弁が業火を熾す炎であるように少女は花を静かに一瞥して、益田を見つめた。
「泣くものかしら?そういう時って逃げるでしょう」
なのに、小人は泣き続ける。
しくしく、しくしく。
炎に包まれる畠のなかで。身を焦がしながら。
その声は小さいのに、酷く悲しげなものに違いない。
―きっと。
「逃げられないと解ってる?」
「そうじゃなくて?」
茎から撫でるように添った指が花弁に触れる。
きっと氷のように冷たいに違いない。
赤い花を――
くしゃり、と握りつぶした指。
流れる薄赤い花の液、染まる指先――花弁の残骸。
「だってどこに――」
逃げる場所があるの?
そう動いた唇から、声は紡がれなかった。
代わりに残り数本の彼岸花を益田に手渡す。
「私の代わりに川に流してくださらない。あまり――水際には寄りたくないの」
誘われれば、引き込まれる。
それは少女自身のことだったのかもしれない。
花を受け取る時に微かに触れた指先は想像とは違って体温のあるものだったけれど。
――だからこそ、か。
「ありがとう」
少女はそのまま踵を返す。
堤防を昇り、小さくなっていく華奢な影を見送って益田は彼岸花をクルクルと回した。
「なんか…」
関口さんの役どころだな、これ―と息を吐く。
薄れていた現実感は、少女が消えて急速に戻りつつあった。
手元の花に僅かに非現実を抱いている。
彼岸は季節の分かれ目。彼岸と此岸の境界が曖昧になるのもまたこの日――。
水際には――
「魍魎だったっけ?」
さわさわと髪をなぶる夕風が、益田の言葉を浚った。
中禅寺は魍魎が苦手らしい。その割には巧みな弁舌で落としたのだと。
鳥口から聞いた話を思い出した。
もう一度、花を見る。
凛とした立ち姿に、誰かの影が重なった。
境界を分かつ時季に咲く鮮やかな花。
人に何かしら強烈な印象を与える存在。
この夏も――ひとつの世界を解体し、再構築した陰陽師。
(――ああ、似てるかも)
そう思い自身で思った内容に益田は一人赤くなった。
花(例え彼岸花であっても)と重ねて見るのは、普通憎からず想う人だろう―慌てて首を横に振る。
「何だかな、ヤだなぁ」
カマオロカめッと高らかに愚弄する探偵が何故か脳裏に過ぎった。
益田は誰に聞かれるともなく呟いて、大きく伸びをする。
間延びした声に促され、ますます現実に戻る。
「よし、と。まあ」
濡れた草に足を捕られながら歩を進める。
川面が落ちる寸前の陽に反射してゆらゆらと煌く。
流れる水に寄る。身体を曲げて、花を水の中に横たえる。
ひっそりとした匂う水。
暗い水に花はそっと流れ――。
水の色と花の色は離れるに従って同化していく。
もうしばらく眺めてから探偵社に戻ろうと益田は思った。
魔法使いの弟子
「おや、鳥口君」
昼なお暗い路地裏で目が合った時、声を掛けてきたのは中禅寺の方だった。
切れ長の瞳がやや瞠目している。けれど、驚いているのなら鳥口の方に分があったと思う。
「…師匠じゃないですか!珍しいですねぇ、外にいるなんて」
彼の出不精は、徹底している。能動的な外出は書籍に関することのみ。
書に埋もれていれば満足であり、世情から隠棲したいと常々漏らしている処からも伺える。
もっとも、最近は専ら事件に担ぎ上げられ、出不精の名が泣いている感も拭えないが。
「何してるんですか?」
「君こそ、こんなところでこそこそと何をしてるんだね」
「取材ですよぉ、ないネタで雑誌は売れません」
軽口で、中禅寺に近寄る。
外で会う時は大体が憑き物落としの場合で背後に控えることが多い。
真横に並んで立ったのは初めてかもしれない。隣に立って、改めて違和感を覚える。
「まあ、頑張ってるようだな」
中禅寺は濃い紺の着流しを涼しげに着込んでいた。手には同色の風呂敷。中身は書籍に間違いないだろう。
「僕の方も商売だ。君達はどうも勘違いしているようだが、僕の本業は古本屋でね、只働きが多い憑き物落としは副業だ」
関口はどさくさに紛れて、まだ玉櫛料払ってないしねぇ―。
ついた溜め息はワザとらしかった。
「それじゃ、取り立てに?」
「関口君の家とは方向違いだろう?」
「そうですか?」
「そうだよ。わざわざ関口君に会いに行くほど僕も暇でもないし」
さらりと関口を貶すのはこの男にして日常茶飯事だ。「うへえ」と思わず呟いた鳥口を一瞥して、中禅寺は路地の奥を振り返る。
「この先に和書の蒐集家がいたんだが、先日急に亡くなられてね。残された家族が書籍を処分したいからと僕のところに査定を申し込みにこられた。だが――」
大して、買い取れないかなあ―視線を戻して、中禅寺は風呂敷を抱えなおした。重そうである。
「へ?売れないんすか。価値のない本ばかりだった?」
鳥口の質問には、そっけない答えが返る。
「価値のない本などないよ。ただ僕の店は小さい。何でもかでも買い取っていたら、経営が成り立たないだろう。だから明日本を引き取りに行くついでに他の――薫紫亭さんを紹介しておくよ。あそこは和書専門だ」
「はあ、」
じゃあ、明日も外出ですねぇと確認でもなく、話を繋げるためだけに言った。
この暑いのに厭になると彼は言うが、その割に汗はあまりかいていないように見える。
中禅寺がよいしょ―と再度、風呂敷を抱えなおした。
この男は確か、非力だが本の重みだけは別の本嗜好(フェチ)だったのではないか?
「師匠、それ。その中身」
「ん。本の引取りは明日なんだが。千鶴子に買物を頼まれた」
聞くと、中身は味噌―らしい。
愛妻家なのだ。もしかしたら、尻に敷かれてるのかもしれない。
意外に普通の夫婦である。
鳥口は、風呂敷に手を掛ける。風呂敷の結び目を持つ中禅寺の指は僅かに汗に濡れていた。
――師匠も人の子ってね。
当たり前のことに妙な親近感を持ってしまう。
「僕が持ちますよ。これから帰るだけなんでしょう。下僕だし、体力と明るいのが取り柄です」
「ああ、すまない」
鳥口が受け取ってみると風呂敷は大して重くなかった。
――非力なんだなぁ。
憑き物落としの時や、京極堂の居間で彼の薀蓄を拝聴している時は、微塵も思わないのだが。
この細い体躯にあの強靭な精神があるのは、何だかアンバランスな気もする。
中禅寺は軽くなった両手を振ると、自分の肩を揉みながらぼやいた。
「しかし、持ってくれるのは有り難いがね。僕は下僕も弟子も取ってないよ。下僕は探偵社で募ってる。…悪いことに増加中だ」
「ふう、困ったものですねぇ。あの小父さんが増長する――」
ふわり、とない前髪をかき上げる真似をして、鳥口は言った。
「―と益田君が嘆いておりました」
「ホントに困ったもんだ」
喉を鳴らして、中禅寺が笑う。相好を崩すと、とっつきにくい印象も薄れるのだ。
恐い人だ最初は思った。
次に妖怪好きの博識。
言葉で摩訶不思議な事件を収束させる魔法使い。
揺るがない、強さ。
でも、それが中禅寺の全てではないことを今は知っている。
彼を疑ってしまった事件で。
またこんな日常の経過の中で。
関係を繋げていたいと願う気持ちがある。
敦子に向ける憧憬にとてもよく似て、けれど明確に違う形で――。
路地から駅までの道筋を歩きながら他愛のない話をした。
彼の話術に引き込まれて、余計な馬鹿話までしてしまう。
「……敦子さんには内緒ですよ」
「さあ、どうしよう―」
「うへえ、勘弁してください」
昼なお暗い路地裏で目が合った時、声を掛けてきたのは中禅寺の方だった。
切れ長の瞳がやや瞠目している。けれど、驚いているのなら鳥口の方に分があったと思う。
「…師匠じゃないですか!珍しいですねぇ、外にいるなんて」
彼の出不精は、徹底している。能動的な外出は書籍に関することのみ。
書に埋もれていれば満足であり、世情から隠棲したいと常々漏らしている処からも伺える。
もっとも、最近は専ら事件に担ぎ上げられ、出不精の名が泣いている感も拭えないが。
「何してるんですか?」
「君こそ、こんなところでこそこそと何をしてるんだね」
「取材ですよぉ、ないネタで雑誌は売れません」
軽口で、中禅寺に近寄る。
外で会う時は大体が憑き物落としの場合で背後に控えることが多い。
真横に並んで立ったのは初めてかもしれない。隣に立って、改めて違和感を覚える。
「まあ、頑張ってるようだな」
中禅寺は濃い紺の着流しを涼しげに着込んでいた。手には同色の風呂敷。中身は書籍に間違いないだろう。
「僕の方も商売だ。君達はどうも勘違いしているようだが、僕の本業は古本屋でね、只働きが多い憑き物落としは副業だ」
関口はどさくさに紛れて、まだ玉櫛料払ってないしねぇ―。
ついた溜め息はワザとらしかった。
「それじゃ、取り立てに?」
「関口君の家とは方向違いだろう?」
「そうですか?」
「そうだよ。わざわざ関口君に会いに行くほど僕も暇でもないし」
さらりと関口を貶すのはこの男にして日常茶飯事だ。「うへえ」と思わず呟いた鳥口を一瞥して、中禅寺は路地の奥を振り返る。
「この先に和書の蒐集家がいたんだが、先日急に亡くなられてね。残された家族が書籍を処分したいからと僕のところに査定を申し込みにこられた。だが――」
大して、買い取れないかなあ―視線を戻して、中禅寺は風呂敷を抱えなおした。重そうである。
「へ?売れないんすか。価値のない本ばかりだった?」
鳥口の質問には、そっけない答えが返る。
「価値のない本などないよ。ただ僕の店は小さい。何でもかでも買い取っていたら、経営が成り立たないだろう。だから明日本を引き取りに行くついでに他の――薫紫亭さんを紹介しておくよ。あそこは和書専門だ」
「はあ、」
じゃあ、明日も外出ですねぇと確認でもなく、話を繋げるためだけに言った。
この暑いのに厭になると彼は言うが、その割に汗はあまりかいていないように見える。
中禅寺がよいしょ―と再度、風呂敷を抱えなおした。
この男は確か、非力だが本の重みだけは別の本嗜好(フェチ)だったのではないか?
「師匠、それ。その中身」
「ん。本の引取りは明日なんだが。千鶴子に買物を頼まれた」
聞くと、中身は味噌―らしい。
愛妻家なのだ。もしかしたら、尻に敷かれてるのかもしれない。
意外に普通の夫婦である。
鳥口は、風呂敷に手を掛ける。風呂敷の結び目を持つ中禅寺の指は僅かに汗に濡れていた。
――師匠も人の子ってね。
当たり前のことに妙な親近感を持ってしまう。
「僕が持ちますよ。これから帰るだけなんでしょう。下僕だし、体力と明るいのが取り柄です」
「ああ、すまない」
鳥口が受け取ってみると風呂敷は大して重くなかった。
――非力なんだなぁ。
憑き物落としの時や、京極堂の居間で彼の薀蓄を拝聴している時は、微塵も思わないのだが。
この細い体躯にあの強靭な精神があるのは、何だかアンバランスな気もする。
中禅寺は軽くなった両手を振ると、自分の肩を揉みながらぼやいた。
「しかし、持ってくれるのは有り難いがね。僕は下僕も弟子も取ってないよ。下僕は探偵社で募ってる。…悪いことに増加中だ」
「ふう、困ったものですねぇ。あの小父さんが増長する――」
ふわり、とない前髪をかき上げる真似をして、鳥口は言った。
「―と益田君が嘆いておりました」
「ホントに困ったもんだ」
喉を鳴らして、中禅寺が笑う。相好を崩すと、とっつきにくい印象も薄れるのだ。
恐い人だ最初は思った。
次に妖怪好きの博識。
言葉で摩訶不思議な事件を収束させる魔法使い。
揺るがない、強さ。
でも、それが中禅寺の全てではないことを今は知っている。
彼を疑ってしまった事件で。
またこんな日常の経過の中で。
関係を繋げていたいと願う気持ちがある。
敦子に向ける憧憬にとてもよく似て、けれど明確に違う形で――。
路地から駅までの道筋を歩きながら他愛のない話をした。
彼の話術に引き込まれて、余計な馬鹿話までしてしまう。
「……敦子さんには内緒ですよ」
「さあ、どうしよう―」
「うへえ、勘弁してください」
ひなたぼっこ
「珍しい」
「何が?」
「あなたが本の代わりにそうやって膝に柘榴を寝かせてらっしゃるのが」
「偶には僕だって縁側でのんびりするさ」
「まあ、そうですか。――ご一緒しても構いません?」
「いいよ」
「……ふふ、少し退廃的ですわね。平日の真昼からぼんやりお庭を眺めてるだけなんて」
「どこが退廃的なもんか。どこかの小説家の先生にはほぼ日常だぜ」
「それに退廃的には雰囲気が足りないようだね。ああ――」
「柘榴は大きな欠伸をしているし、隣は見飽きた妻ですものね」
「見飽きるほど、まだ見ちゃいないよ、千鶴子。…どちらかといえば、隠居の昼下がりって感じだな。僕はもともと隠棲所望だったんだ。毎日がこうなら言うことないんだがなぁ」
「本に埋もれて?猫を一匹」
「良き妻をひとり。充分じゃないか」
「持ち上げてくれますわね」
「そう思ってるよ」
「ふふ、ありがとうございます」
「あら、あなた―こんなところに白髪が」
「…歳だな、僕も」
「ふふふ」
「千鶴子?何だって僕の白髪でそんなに楽しそうなんだ」
「だってあなた無茶なさりますでしょう。断りきれずにあちらこちらで“悪人御用!”なんて憑き物落としていらっしゃっる。共に白髪の生えるまで大丈夫なのかしらって心配してますのよ。いつも」
「の、割には外出が多いね」
「まあ、そうですね」
「ああ。僕は茶を煎れるのが、どうも下手でね。客人、知人には偉く不評だ」
「手先は器用ですのにねぇ」
「関係ないだろう」
「お茶の煎れ方の本てありませんの?」
「千鶴子」
「…はい?」
「勿論、茶だけが問題じゃないんだが」
「ええ、解ってますわ。でも、寂しいのは我慢してくださいね。お互い様です」
「―すまない」
「あら、謝る必要はありませんわ」
「何故だい?」
「私、家に帰ってあなたに“お帰り”って言っていただくの好きなんです。あの声と表情見たさに外出してるって言っても過言じゃないくらいですの」
「それは…」
「惚気てるんです。本人に惚気ても仕方ないんでしょうけれど。思った気持ちは声にしとかないと、忘れてしまいますから」
「…京都で同じ言葉を聞いた気がするよ。二十年近く前。あの時白髪はなかったなぁ」
「ええ、随分気張りましたわ、あの時は。若かっただけにイキオイで」
「僕は石橋を叩いても渡らない慎重派、らしいからね。君が言ってくれたお蔭だな。今こうしてるのは」
「凄い緊張しましたわ。今でも憶えてますもの。手が汗に濡れて震えて、頭がキリキリ痛んできて。
何でこんな思いしてまで告白してんのやろと――待ってる性分じゃあなかったからですけど――思いましたもの」
「僕も緊張してたよ。かなり」
「本当に?」
「ああ、本当さ」
「今は?」
「今は、しないね」
「まあ、怠慢ですわ」
「違うよ。知ってて言ってるだろう」
「ええ」
「君だって、僕に今更緊張しないだろう?」
「しませんわね」
「馴染んだ―という表現が適切かな」
「はい。やっぱり良い言葉をお選びになりますわ。――私にはあなたの隣の位置が」
「僕にとっては君の傍らに在る位置が、いつのまにか馴染んで現在(いま)に至る訳だ。
当たり前のことだが―言葉にすると結構照れるもんだな」
「偶には、照れるのも良いじゃないですか。いつも眉間に皺を寄せていらっしゃるよりはね」
「そうかもしれないね。……千鶴子」
「はい?」
「午後からはどこかに出掛けようか」
「珍しいこと」
「柘榴に留守を頼むのは些か心配だが…」
「ちゃんとお留守番くらい出来ますわ。ねぇ、柘榴」
「同行してくれるのかい?」
「勿論。あなたとふたりで出掛けるの、久しぶりですもの。嬉しいですわ」
「それは良かった」
「ええ、とても」
「何が?」
「あなたが本の代わりにそうやって膝に柘榴を寝かせてらっしゃるのが」
「偶には僕だって縁側でのんびりするさ」
「まあ、そうですか。――ご一緒しても構いません?」
「いいよ」
「……ふふ、少し退廃的ですわね。平日の真昼からぼんやりお庭を眺めてるだけなんて」
「どこが退廃的なもんか。どこかの小説家の先生にはほぼ日常だぜ」
「それに退廃的には雰囲気が足りないようだね。ああ――」
「柘榴は大きな欠伸をしているし、隣は見飽きた妻ですものね」
「見飽きるほど、まだ見ちゃいないよ、千鶴子。…どちらかといえば、隠居の昼下がりって感じだな。僕はもともと隠棲所望だったんだ。毎日がこうなら言うことないんだがなぁ」
「本に埋もれて?猫を一匹」
「良き妻をひとり。充分じゃないか」
「持ち上げてくれますわね」
「そう思ってるよ」
「ふふ、ありがとうございます」
「あら、あなた―こんなところに白髪が」
「…歳だな、僕も」
「ふふふ」
「千鶴子?何だって僕の白髪でそんなに楽しそうなんだ」
「だってあなた無茶なさりますでしょう。断りきれずにあちらこちらで“悪人御用!”なんて憑き物落としていらっしゃっる。共に白髪の生えるまで大丈夫なのかしらって心配してますのよ。いつも」
「の、割には外出が多いね」
「まあ、そうですね」
「ああ。僕は茶を煎れるのが、どうも下手でね。客人、知人には偉く不評だ」
「手先は器用ですのにねぇ」
「関係ないだろう」
「お茶の煎れ方の本てありませんの?」
「千鶴子」
「…はい?」
「勿論、茶だけが問題じゃないんだが」
「ええ、解ってますわ。でも、寂しいのは我慢してくださいね。お互い様です」
「―すまない」
「あら、謝る必要はありませんわ」
「何故だい?」
「私、家に帰ってあなたに“お帰り”って言っていただくの好きなんです。あの声と表情見たさに外出してるって言っても過言じゃないくらいですの」
「それは…」
「惚気てるんです。本人に惚気ても仕方ないんでしょうけれど。思った気持ちは声にしとかないと、忘れてしまいますから」
「…京都で同じ言葉を聞いた気がするよ。二十年近く前。あの時白髪はなかったなぁ」
「ええ、随分気張りましたわ、あの時は。若かっただけにイキオイで」
「僕は石橋を叩いても渡らない慎重派、らしいからね。君が言ってくれたお蔭だな。今こうしてるのは」
「凄い緊張しましたわ。今でも憶えてますもの。手が汗に濡れて震えて、頭がキリキリ痛んできて。
何でこんな思いしてまで告白してんのやろと――待ってる性分じゃあなかったからですけど――思いましたもの」
「僕も緊張してたよ。かなり」
「本当に?」
「ああ、本当さ」
「今は?」
「今は、しないね」
「まあ、怠慢ですわ」
「違うよ。知ってて言ってるだろう」
「ええ」
「君だって、僕に今更緊張しないだろう?」
「しませんわね」
「馴染んだ―という表現が適切かな」
「はい。やっぱり良い言葉をお選びになりますわ。――私にはあなたの隣の位置が」
「僕にとっては君の傍らに在る位置が、いつのまにか馴染んで現在(いま)に至る訳だ。
当たり前のことだが―言葉にすると結構照れるもんだな」
「偶には、照れるのも良いじゃないですか。いつも眉間に皺を寄せていらっしゃるよりはね」
「そうかもしれないね。……千鶴子」
「はい?」
「午後からはどこかに出掛けようか」
「珍しいこと」
「柘榴に留守を頼むのは些か心配だが…」
「ちゃんとお留守番くらい出来ますわ。ねぇ、柘榴」
「同行してくれるのかい?」
「勿論。あなたとふたりで出掛けるの、久しぶりですもの。嬉しいですわ」
「それは良かった」
「ええ、とても」
昔の話
「礼二郎?」
広い庭園の片隅。薔薇に囲まれた温室の一角に蹲る小さい影。
その影を探して屋敷中を歩き回っていた総一郎は、そっと近づいた。
逃げられないようにするためではない。
起こさないように、との配慮を込めてのことだ。
「…寝てるね」
上下する薄い胸、木漏れ日が斑に落ちる頬。茶色を透かして光る髪。
弟は熟睡している。
木のベンチは、彼のお気に入りの場所だった。
それを知っていながら、態々迂回するように屋敷中を探り、一番最後に此処に来た。
休ませておいた方がいいと思ったからなのだが。
(でも、なあ)
写真を撮るぞッ!と唐突に言った父の顔を思い浮かべて、総一郎は溜め息を吐く。
父は有言実行の人だから、言ったことは実行する。
母以外の人が父を言い負かせているのを総一郎は見たことがない。
稚気の溢れる人だとか、好奇心旺盛とか、そういう一般的な表現から逸脱している。
良くも悪くも少年のような人なのだ。変人でもある。組織の長として統率力はある癖に、仕組みからは枠外としてはみだしている。
悪い人ではないが、困った大人だ。
「ああ…どうしようかなあ」
最近の父の趣味は子どもの頭に小石を乗せて写真を撮ることで。
ひとつ積んでは母のため、ふたつ積んでは父のため―。
賽の川原ごっこか、楽しげに調子外れの歌を付けて総一郎と礼二郎の頭に小石を乗せている。
(…何のことだか解りゃしねえ)
珍しく(心中とはいえ)汚い言葉で悪態を吐いて、礼二郎を見る。
額に汗が浮かんでいる。
表情は苦しげではないが、昨日の発熱のせいか少しやつれているような気がする。
時折の原因不明の熱。
風邪などではないのだろう、と総一郎は薄々感づいている。
弟には視えて、自分達には視えないものがあり、それが発熱の原因であることを。
「…ふぁああ」
「やあ、起きたね」
突然に開かれる大きな瞳。弟の目覚めはいつもこんな感じだ。
きょときょとと数度音がしそうな睫を瞬かせた後、ううんと間延びした声を上げる。
「気分はどう?」
「悪い。でも寝てたら治りそうだったんだ」
「邪魔だったかな?」
「全然」
隣に腰を降ろした総一郎に抱きつきながら、くぐもった声で礼二郎は答えた。
彼は殊のほか、スキンシップを好む。
ぽんぽんと肩を叩いてやると、くふふと笑い声もくぐもったものが返ってきた。
「…また、何か厭なもの視ちゃった?」
「兄さんは視なかったのか」
「残念ながら、ね」
「残念じゃないぞ。視なくて正解だ」
「視えなかったのが、残念じゃなくてお前にだけ厭なもの視せちゃったんだな、ってことが残念なの」
ピン―と白い額を人差し指で弾きながら、言い含めるように言う。
常人には視えないものが映るらしいまだ熱の残る瞼に一瞬触れて。
「僕は視えないからね」
自分の瞼を総一郎は抑えた。
「ふうん、そうか」
何が視えるか、それは視える本人にも解らないものらしい。
視るものが厭なものばかりではない。でも、綺麗なものばかりでもない―ことは想像に難くないのだが。
「熱が出ると熱いでしょ。苦しいし、厭だろうなと思う。だから心配」
「消化不良みたいなだけなんだ。兄さんが苦しそうな顔する必要はない」
「そうなんだけどね」
でも痛いんだからしょうがないじゃないか、と総一郎が自分の胸を指差して肩を竦めると、
「イタイノイタイノトオクノオヤマニトンデイケ!だな」
と笑顔を浮かべて無邪気に礼二郎が唱えた。
「原因はお前なのに、トオクノオヤマの人が痛い思いするのかい?」
「じゃあ、僕が痛い思いをしろと?酷い兄だな!」
非難されながら、笑っている弟の髪を撫でる。
「……ねえ、礼二郎」
「なあに」
「僕からは何か視える?」
「うん。父さんと…貝?いや、違うな。ああ、カタツムリかあ…なあんて変てこなカタツムリを捕まえて帰ったんだろうねぇ!」
「ヤシガニ、って言うんだよ。結構可愛かった。足の毛がモサモサしてて」
「マニアック」
「えー、可愛いよ。―で、その父さんなんだけど、例の如く」
「賽の川原の写真大会か?今度はそのカタツムリ乗せるとか言い出すんじゃあないか」
「うーん、あの人のことだからねぇ」
むぅっとした表情になる礼二郎を置いて、総一郎は立ち上がった。
「……でも、面白いからいいじゃない」
ね、と笑って寝転がっている弟に手を伸ばす。
その手を茶色の瞳は数秒見つめて、くるん、と猫の子のような俊敏さで起き上がった。
「仕方ない!馬鹿父さんに付き合ってやるぞ。僕は孝行息子だからな」
「ふふ、そうだねえ」
***
「今思いついたんだけど、父さんの凝ってたあれね」
ひとつ積んでは母のため、ふたつ積んでは父のため―。
歌いながら賽の川原で石を積む子どもは親より早逝した罪を贖うために石を積み続ける。
でも父は自ら小石を子どもの頭に乗せた。子どもの頭に小石を積むのは意外と困難な作業だろうに。
楽しげに小石を積んだ子どもらを写真に収めていた彼は――
「あれはほら――もしかしたら」
総一郎は古ぼけた昔の写真を爪弾いて、にんまりと眼を細めた。
眼の前には、写真に収まった華奢な子どもの成長した姿。
久しぶりに見る弟。身長は随分前に抜かれて、立って視線を合わせていると首が痛い。
「子どもの健やかな成長を願ってのことだったのかもしれないねぇ」
随分、遠まわしなうえ、解り難い遣り方だけどさ。
「効き目は抜群だったようだ。よく育ったからなぁ。お前」
うんうん、と感慨深げに頷く総一郎に、礼二郎は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「昔の話じゃあないか!それを聞かせるためにわざわざこの僕を呼びつけたのか?兄さん」
「うん。そう」
てらいなく笑顔で認めると、呆れたような表情をされた。
「…なあんで?」
「お前に聞かせたいなぁと思ったから。聞かせたら喜びそうな気がしたし。―それに偶に弟の顔を見とかないとな」
「――あ。そう、」
広い庭園の片隅。薔薇に囲まれた温室の一角に蹲る小さい影。
その影を探して屋敷中を歩き回っていた総一郎は、そっと近づいた。
逃げられないようにするためではない。
起こさないように、との配慮を込めてのことだ。
「…寝てるね」
上下する薄い胸、木漏れ日が斑に落ちる頬。茶色を透かして光る髪。
弟は熟睡している。
木のベンチは、彼のお気に入りの場所だった。
それを知っていながら、態々迂回するように屋敷中を探り、一番最後に此処に来た。
休ませておいた方がいいと思ったからなのだが。
(でも、なあ)
写真を撮るぞッ!と唐突に言った父の顔を思い浮かべて、総一郎は溜め息を吐く。
父は有言実行の人だから、言ったことは実行する。
母以外の人が父を言い負かせているのを総一郎は見たことがない。
稚気の溢れる人だとか、好奇心旺盛とか、そういう一般的な表現から逸脱している。
良くも悪くも少年のような人なのだ。変人でもある。組織の長として統率力はある癖に、仕組みからは枠外としてはみだしている。
悪い人ではないが、困った大人だ。
「ああ…どうしようかなあ」
最近の父の趣味は子どもの頭に小石を乗せて写真を撮ることで。
ひとつ積んでは母のため、ふたつ積んでは父のため―。
賽の川原ごっこか、楽しげに調子外れの歌を付けて総一郎と礼二郎の頭に小石を乗せている。
(…何のことだか解りゃしねえ)
珍しく(心中とはいえ)汚い言葉で悪態を吐いて、礼二郎を見る。
額に汗が浮かんでいる。
表情は苦しげではないが、昨日の発熱のせいか少しやつれているような気がする。
時折の原因不明の熱。
風邪などではないのだろう、と総一郎は薄々感づいている。
弟には視えて、自分達には視えないものがあり、それが発熱の原因であることを。
「…ふぁああ」
「やあ、起きたね」
突然に開かれる大きな瞳。弟の目覚めはいつもこんな感じだ。
きょときょとと数度音がしそうな睫を瞬かせた後、ううんと間延びした声を上げる。
「気分はどう?」
「悪い。でも寝てたら治りそうだったんだ」
「邪魔だったかな?」
「全然」
隣に腰を降ろした総一郎に抱きつきながら、くぐもった声で礼二郎は答えた。
彼は殊のほか、スキンシップを好む。
ぽんぽんと肩を叩いてやると、くふふと笑い声もくぐもったものが返ってきた。
「…また、何か厭なもの視ちゃった?」
「兄さんは視なかったのか」
「残念ながら、ね」
「残念じゃないぞ。視なくて正解だ」
「視えなかったのが、残念じゃなくてお前にだけ厭なもの視せちゃったんだな、ってことが残念なの」
ピン―と白い額を人差し指で弾きながら、言い含めるように言う。
常人には視えないものが映るらしいまだ熱の残る瞼に一瞬触れて。
「僕は視えないからね」
自分の瞼を総一郎は抑えた。
「ふうん、そうか」
何が視えるか、それは視える本人にも解らないものらしい。
視るものが厭なものばかりではない。でも、綺麗なものばかりでもない―ことは想像に難くないのだが。
「熱が出ると熱いでしょ。苦しいし、厭だろうなと思う。だから心配」
「消化不良みたいなだけなんだ。兄さんが苦しそうな顔する必要はない」
「そうなんだけどね」
でも痛いんだからしょうがないじゃないか、と総一郎が自分の胸を指差して肩を竦めると、
「イタイノイタイノトオクノオヤマニトンデイケ!だな」
と笑顔を浮かべて無邪気に礼二郎が唱えた。
「原因はお前なのに、トオクノオヤマの人が痛い思いするのかい?」
「じゃあ、僕が痛い思いをしろと?酷い兄だな!」
非難されながら、笑っている弟の髪を撫でる。
「……ねえ、礼二郎」
「なあに」
「僕からは何か視える?」
「うん。父さんと…貝?いや、違うな。ああ、カタツムリかあ…なあんて変てこなカタツムリを捕まえて帰ったんだろうねぇ!」
「ヤシガニ、って言うんだよ。結構可愛かった。足の毛がモサモサしてて」
「マニアック」
「えー、可愛いよ。―で、その父さんなんだけど、例の如く」
「賽の川原の写真大会か?今度はそのカタツムリ乗せるとか言い出すんじゃあないか」
「うーん、あの人のことだからねぇ」
むぅっとした表情になる礼二郎を置いて、総一郎は立ち上がった。
「……でも、面白いからいいじゃない」
ね、と笑って寝転がっている弟に手を伸ばす。
その手を茶色の瞳は数秒見つめて、くるん、と猫の子のような俊敏さで起き上がった。
「仕方ない!馬鹿父さんに付き合ってやるぞ。僕は孝行息子だからな」
「ふふ、そうだねえ」
***
「今思いついたんだけど、父さんの凝ってたあれね」
ひとつ積んでは母のため、ふたつ積んでは父のため―。
歌いながら賽の川原で石を積む子どもは親より早逝した罪を贖うために石を積み続ける。
でも父は自ら小石を子どもの頭に乗せた。子どもの頭に小石を積むのは意外と困難な作業だろうに。
楽しげに小石を積んだ子どもらを写真に収めていた彼は――
「あれはほら――もしかしたら」
総一郎は古ぼけた昔の写真を爪弾いて、にんまりと眼を細めた。
眼の前には、写真に収まった華奢な子どもの成長した姿。
久しぶりに見る弟。身長は随分前に抜かれて、立って視線を合わせていると首が痛い。
「子どもの健やかな成長を願ってのことだったのかもしれないねぇ」
随分、遠まわしなうえ、解り難い遣り方だけどさ。
「効き目は抜群だったようだ。よく育ったからなぁ。お前」
うんうん、と感慨深げに頷く総一郎に、礼二郎は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「昔の話じゃあないか!それを聞かせるためにわざわざこの僕を呼びつけたのか?兄さん」
「うん。そう」
てらいなく笑顔で認めると、呆れたような表情をされた。
「…なあんで?」
「お前に聞かせたいなぁと思ったから。聞かせたら喜びそうな気がしたし。―それに偶に弟の顔を見とかないとな」
「――あ。そう、」
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